奇跡の食品 納豆
時は縄文時代。日本列島では旧石器時代からの狩猟採集を主とした衣、食、住に陸稲栽培(説有)を加えてできた豊かな生活を送っていました。住居には穴を掘って柱を立てた竪穴式住居、中央奥には炉が配置され、夏は蒸し暑く、冬は寒い気候に上手く対応していました。さらに微高地では陸稲を栽培し、米は土器で煮て食べ副産物の稲わらを竪穴の床に敷き詰めていたともされています。そこに大豆の祖先*ツルマメに限りなく近い大豆。これを煮て食料にしていた縄文人たちは炉で暖まった室内の床、藁の上に煮豆をこぼしまうこともいくらかあったのでしょう。そうして偶々できあがったのが納豆だったのです。糸を引く豆を見て、驚いたこと間違いありません。しかし、先人たちはそれを捨てること無く食べてみたのです。美味しかったかはわかりませんが、食べられる事を知った先人たちは大豆を畦に植え、育種選抜と並行しながら長い年月を経ても変わらず食卓に納豆を置くようになりました。納豆が栄養学的に解明されていなくとも、身体の調子が自然と良くなったことを実感していたのかも知れません。そこからしばらくは冬の野菜不足を補う食品としてご飯のお供、納豆汁として活躍し、冬の季語にまでなりました。
過去の句に以下のようなものがあります。
吹雪くる夜を禅寺に納豆打つ(正岡子規)
豆腐屋の来ぬ日はあれど納豆賣(同上)
朝霜や室の揚屋の納豆汁(与謝蕪村)
江戸時代は納豆汁として冬食べることが多かったみたいです。納豆打つという納豆を味噌汁へ入れるのにまな板の上で包丁で刻むことらしく、過去の人々に思いが馳せられます。
他にも室町時代にはおとぎ草子の一つ、平家物語のパロディーとして「精進魚類物語」があります。これは精進物vs魚類物という構図で戦をした末、精進物が勝つというおとぎ話でなんと精進物のリーダーが納豆太郎糸重という武士(擬人化された納豆)だそうです。それも藁苞で包まれた糸引き納豆であり、親しまれ粘り強いことからリーダーに選抜されたのかもしれません。以下は鮭の反乱を聞いた納豆太郎の様子を表した一文です。
折ふし納豆太、藁の中に昼寝してありけるが、ね所見ぐるしくや思ひけん、涎垂れながらかばと起き、仰天してぞ対面す
作者、作成年不明のため真相はわかりませんが、藁の中でそれも昼寝をしていたという表現がまさに発酵。涎が納豆の糸と捉えられるかもしれません。面白いものです。この時代、公家、武家などの上流階級の方も食べていたそうです。
過去の先人たちが偶然の発見から紡いできた納豆のリレーと大豆へのこだわりから、そして稲と伴に生きてきた日本人の精神が今、こうして和食の一つして計上されているのは感慨深いものがあります。是非一度、そんな過去に思いを馳せて食べてみるのもいいかもしれません。
*ツルマメ…大豆の野生種で、日本の在来種。稲など作物の野生種のほとんどが消滅しているのに対して、大豆の野生種が今なお残っているのは珍しい。日本ではかつて大豆は5000年前中国からの渡来物という認識が通説であったが、宮崎県王子山遺跡から1万30000年前のツルマメの圧痕があったことから日本でツルマメから大豆に品種改良された可能性、つまり大豆の原産地は日本であるとも言えるかもしれない。